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「華国鋒は毛沢東の息子だった」 [2014年05月21日(WED)]

「華国鋒は毛沢東の息子だった」


 この話は、譲夢飛翔倶楽部Rmfxcluf新浪の文章を転載したものです。

 華国鋒は、国務院総理(首相)、党中国共産党中央委員会主席を務めた人である。

 ある雑誌に掲載された「華国鋒は毛沢東の長子・私生児だった」という文章が話題を呼んだ。第16回党大会前、華国鋒は中国共産党中央に自身の身分を戻し、姓を「毛」に変えたいという要望書を提出した。しかし毛沢東が死んでから時間もたち、華国鋒は政治的影響力もすでに持っていなかったため、華国鋒の希望は通らなかった。当局は共産党のイメージを維持するため、長期間にわたって華国鋒の出生の秘密を隠していた。華国鋒からの要望書に中央組織部は2004年3月初頭、以下のような返信をした。「中央は考慮を重ねた結果、毛沢東の名声を守り、党と社会的影響、そして本人への影響を鑑みて、改姓の必要と自身の父や母の姓に戻す必要性を特段認めない。ただし、出生地である湖南省湘潭にて老後の生活を送ることは認める」。

 2002年2月26日、華国鋒は毛沢東の娘、李敏、李訥、毛沢東生前の秘書である張玉鳳らは毛沢東紀念堂にて、毛沢東の冥福を祈った。華国鋒がささげた献花の帯に「忠実なる息子国鋒より」という言葉が記されていた。しかし、その日の午後にはこの花は紀念堂の職員によって早々に片づけられてしまった。

※いったいどういう事なのか?
 中国共産党中央の主席だった華国鋒の出生の謎は70年代、80年代以来、ずっと噂されてきていた。
 毛沢東が1920年に長沙で共産主義の小さなグループを立ち上げた時、姚という姓の女性と知り合った。彼女の父親は山西省から湖南省に煙草を売りに来ていた商人だった。1921年、姚氏と毛沢東との間に華国鋒が生まれた。姚氏は華国鋒を生んだ2年後に病死した。毛沢東は親戚に姚氏との間にうまれた華国鋒を預け、育ててもらうこととした。その後華国鋒は山西省太原に送られ、さらに交城に移り住んだ後、親戚の姓である「華」をとって、華光祖と名乗った。抗日戦争勝利後、華成武と改名し、解放戦争初期には華国鋒と改名した。

 1949年2月、中国共産党第七回党大会第二回中央全体会議の後、周恩来は政治局会議において山西省交城県県委員会書記である華国鋒を北京市軍事管制委員会に異動させた。しかし毛沢東はその異動に同意していなかった。毛沢東は「革命は未だ勝利せず、全中国も解放されず、さらには多くの処理すべき事がある。そうした中で自らの縁者を首都に連れてくることはできない」という意見だった。

 1950年代初頭、毛沢東は華国鋒に故郷で任務に就くよう言い渡し、湖南省湘潭の書記にした。毛沢東は9回にわたる湖南省あるいは長沙訪問時、湖南省共産党委員会に命じて華国鋒と会見していた。中南局第一書記の陶鋳と湖南省書記の張平化も、華国鋒を気遣っていた。19××年12月の中央政治局が開催した全国工作会議の期間中、毛沢東は張平化を探して華国鋒の仕事ぶりを尋ねた。張平化は「華国鋒同志は事務主義者であり、政策の忠実な実行者であり、好人物であり、決して偏重のある人ではありません」と答えた。毛沢東は「社会主義革命は党の方針と政策に忠実な執行者を必要としている。このような良き同志は決して多くはない。私は面従腹背する人物を嫌いである。こうした人物は自分勝手なやり方、修正主義的なやり方を好むものだ。」と答えた。その後、華国鋒は省の文教部長、統一戦線部長、省委員会書記を歴任した。1968年、華国鋒は湖南省委員会の第一書記となり、省の改革委員会主任となった。

 毛沢東は湖南に帰るたびに常に華国鋒をそばに置いた。華国鋒は毎年、直接毛沢東主席に地方の仕事を報告するという名目で、北京へ2,3回は行っていた。1971年の林彪事件後、毛沢東は華国鋒を北京に呼び、政治局委員、副総理、公安部長にした。さらに毛沢東は華国鋒を政治局常務委員会の会議にも出席させた。

※中央政治局の華国鋒の身上に関する決議
 1976年9月に毛沢東が逝去し、10月に四人組が逮捕されたのち、1980年第五回人代第三回会議において、華国鋒は国務院総理をやめさせられた。その後、華国鋒が中央政治局に要求していた身分の回復と「毛」への改姓は、中央政治局常務委員会において否決された。

 当時、葉剣英が華国鋒に「あなたや毛主席、党にとって不利益なことですから」と言ったという。鄧小平、陳雲は1955年11月、中央政治局がかつて議論した決議を取り出した。そこには1)華国鋒同志を北京に呼び中央の仕事をさせるべきでない、2)華国鋒同志の身上問題は歴史的要因から発生したもので、党の利益、全般的な利益、毛主席の名誉を守るため、また華国鋒同志の任務と成長のためにも改姓はすべきでない、と記されていた。秘密を守るため、当時、北京にいた中央委員たちはこの決議を知らされなかった。この決議の由来は、周恩来からの「毛岸英同志が朝鮮の戦場で犠牲になって5年、湖南省湘潭の地方委員会書記である華国鋒を北京に呼び戻し、毛主席の近辺で仕事をさせ、身分を回復させてはどうか?」という提案に、劉少奇、朱徳、陳雲、鄧小平らが反対し、党組織の決議を守り、党組織の名誉を守るべきだと強調したことに求められる。

 したがって、党史では華国鋒の出生及び経歴は、下記の通りになった。

 華国鋒の本名は蘇名鋳といい、1921年山西省交城関鎮杜家庄に生まれた。1938年、蘇名鋳は抗日戦争に身を投じ、中華抗日救国先鋒隊に所属した。彼はその隊名を縮めて、華国鋒と名乗ったという。抗日武装闘争時、縁者がつねに日本側勢力によって迫害されていた。縁者を守るため、本名を隠し、華国鋒と改名したのだという。華国鋒はまず中国共産党交城県にて、工場労働者、農民、青年、女性など各界の抗日救国連合会の主任となり、その後交城県委員会書記となった。1945年抗日戦争勝利後、山西省陽曲県委員会書記兼任武装大隊政治委員となった。1949年8月、華国鋒は軍に従って南下し、1952年、毛沢東から故郷の湘潭県委員会書記として任命された。1954年、湘潭地方委員会書記となる。このあと華国鋒は順調に出世し、最終的には党と政治と軍の最高位となった。

※毛主席は周恩来に自身の長子を知らしめるよう指示した
 1966年春、毛沢東の指示により周恩来、康生と汪東興を通じて北京にて華国鋒と初めて彼の出生について意見を交わした。この時から華国鋒は自身が毛沢東の長子であることを認識するようになる。当時、中央は華国鋒に2つの意見を出していた。(1)本人の経歴、戸籍、出生、現在の姓名などは全て1955年に中央が出した「粛反(反革命分子の粛清)」後の「幹部審査」時の登記を援用する事。(2)党全体の利益を考慮し、毛主席との関係を今まで通り変えないこと。華国鋒はこの中央の2つの意見にサインし、「完全に同意します。そして固く遵守します。」と書いた。周恩来と康生、汪東興が書類にサインし、証人となった。

※毛沢東臨終前の華国鋒への依頼
 張玉鳳によれば、周恩来が死去した後、毛沢東は総理の人選問題で江青、張玉鳳、汪東興、毛遠新ら四人の意見を聞いた。汪は毛遠新を推薦した。毛沢東は「若すぎる。務まらないだろう」と答えた。江青は張春橋を推薦した。毛沢東は「あまりにもうぬぼれている。党内部、軍内部で彼を嫌う人は少なくない、とても務まらない」。毛遠新は華国鋒を推薦した。毛沢東は「華国鋒を除いて今は任せられる人はいないな・・・」と答えたという。

 また張玉鳳によれば、1976年4月初頭、××××(四五天安門事件)が発生した後、毛沢東の健康が悪化した。毛沢東は自身の死後を心配していた。江青が恨み深く、闘争心に富んでいるのに対し、そうした点がまさに華国鋒の弱点となっていたからである。このため、毛沢東は最後の人事調整をするとき、二つの方策をもっていた。党主席の後継者について、毛遠新は毛沢東に何度も尋ねたが、毛沢東は常に「まあゆっくりやろう」としか言わなかった。最後に毛沢東の周りにいる五人は、華国鋒、江青、汪東興、毛遠新、陳錫聯だった。

※毛沢東、華国鋒親子と華国鋒の孝道
 1976年5月10日、毛沢東は華国鋒と会見したとき、オメガの腕時計を差し出し、華国鋒に記念としてとっておくようにと贈った。中国共産党中央文献の記述によれば、このオメガは董必武が毛沢東に送ったものだという。

 1976年7月12日、華国鋒は朱徳追悼会のあと、毛沢東に報告していた。毛沢東は張玉鳳を呼び、三セットの古籍を華国鋒に贈った。この三セットの古籍は毛沢東が死去した後、1977年5月に華国鋒が中国共産党中央に提出し、現在も毛沢東紀念堂に保存されている。毛沢東は臨終前、のどがマヒしており、食べ物や飲み物がのどを通らなくなっていたため、胃に直接管を通して栄養と水分を補給しなければいけなかった。しかし毛沢東はその手術に同意しなかった。そのため張春橋、王洪文、汪東興、華国鋒の四人がまず毛沢東を説得しようとした。その時、華国鋒は自ら率先して鼻から胃に管を通して、栄養と水分を取る方法を試してみせようとした。この点からも毛沢東が危篤になったとき、本当に毛沢東の感情を動かせることができたのは華国鋒ただ一人だったことがわかる。華国鋒は毛沢東のベッドの前に立った時、政治局常務委員の一人ではなく、人の子としての孝道を尽くそうという気持ちを止めることができなかった。毛沢東が死去した後、華国鋒が初めにした仕事は天安門前に毛沢東紀念堂を建てることであった。父子のつながりの深さは実に恐るべきものである。


   
毛沢東と華国鋒


※ウィキペディアの華国鋒と上記文章を比べてみると面白い。


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Posted by 笹川 陽平 at 08:01 | エッセー(essay) | この記事のURL | コメント(0)
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